松坂屋と経営統合、
大丸松坂屋百貨店に
札幌店開店・東京店
新店オープン
阪神大震災・神戸店復興
続々出店、業容拡大
業績躍進・売上高が
百貨業界一位に
戦後の復興~東京店開店
「株式会社大丸」誕生
株式合資会社
「大丸呉服店」
「大丸は義商なり、
犯すなかれ」
呉服店「大文字屋」を
開く(開業)
2019年 完成予想図

2016年 心斎橋店本館建て替え工事へ

1921~33年にかけて建てられた心斎橋店本館は、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計による近代日本の貴重な建築として、多くの方に愛されてきました。地域の新たな賑わい創出とともに、建物の安全性の向上やヴォーリズ建築の価値の継承を通じて地域の発展に貢献するため、2015年末をもって一時閉店。2019年開店を目指して建て替え工事を開始しました。

2009年 心斎橋店北館オープン

平成15年(2003年)そごう大阪店が、リニューアルオープンするも、残念ながら平成21年(2009年)8月に再び閉店しました。建物はJ.フロントリテイリングに売却され、同年11月、大丸心斎橋店北館として開店。心斎橋店は北館合わせて合計77,000m²の、グループ最大規模の店舗になりました。

2007年 松坂屋ホールディングスと統合、J.フロントリテイリング発足

少子高齢化や流通業界が激変する中で、百貨店業界では、未来に向けて企業合併などを模索。大丸と松坂屋HDは、3月に経営統合で合意。9月3日に持ち株会社「J.フロントリテイリング」が発足し、3年後の平成22年(2010年)には百貨店部門の「株式会社大丸」と「株式会社松坂屋」が合併し、「株式会社大丸松坂屋百貨店」が誕生しました。

2007年 浦和パルコ店開店

JR浦和駅前に誕生した浦和パルコの地下1階に、店舗面積4,000㎡(東京店の約1/11)の規模で、食品売り場に特化した「大丸フードマーケット」が開店しました。

2007年 東京店新築移転

東京駅再開発の一環として、八重洲側新駅ビル工事が平成16年(2004年)に着工。第一期工事竣工の平成19年(2007年)10月31日、東京店(旧店舗)は閉店し、旧駅ビルは解体。新駅ビル「グラントウキョウノースタワー」に移転して、11月6日にオープンしました。

2003年 札幌店開店

平成15年(2003年)、札幌店開店。オープン初日は13万5千人のお客様にお越しいただき、6年後には地域一番店へと成長しました。

写真:J.フロントリテイリング史料館 提供

1998年 山科店開店

平成9年(1997年)、京都市営地下鉄の東西線が開通。翌年には、地下鉄駅上に新たな商業施設「ラクト山科ショッピングセンター」が誕生。コアテナントとして、山科店が開業しました。

写真:J.フロントリテイリング史料館 提供

1997年 震災から2年、神戸店復興オープン

阪神・淡路大震災で甚大な被害を受けた神戸店は、神戸の町に復興の希望の灯を点すべく、全店の3分の1の面積で営業を再開。2年あまり後の平成9年(1997年)3月2日、全館グランドオープンを果たします。開店前から5千人のお客様が列を作られ、1日の来店客数は12万人となりました

写真:J.フロントリテイリング史料館 提供

1995年 阪神・淡路大震災で神戸店が被災

平成7年(1995年)1月17日早朝、マグニチュード7.3の兵庫県南部地震が発生。阪神地区の大丸各店が被災しましたが、中でも神戸店の被害は甚大でした。神戸市灘区にある配送センターも壊滅し、使用不能となりました。

写真:J.フロントリテイリング史料館 提供

1987年 神戸旧居留地開発はじまる。38番館オープン

大丸は隣接する歴史的な建築を活かしたまま「38番館」をオープンしました。これをきっかけに、旧居留地に残る近代西洋建築を生かした店舗を次々に設け、街並みの保存と再生に勤めました。

1983年 梅田店オープン

昭和53年(1978年)1月、国鉄(当時)大阪駅の新駅ビル建設が発表されました。流通業界では、最後の一等地と言われた場所で、多数の出店希望が集まった中、コアテナントとして大丸が選ばれました。梅田店は58年(1983年)4月27日にオープン。初日の入店客数は30万人に上りました。

写真:J.フロントリテイリング史料館 提供

1983年 CIシステムを導入、マークを制定

昭和58年(1983年)、大丸はコーポレート・アイデンティティ (CI ) システムを導入。梅田店開店を機に企業イメージの刷新を行うべく、「よりよい生活をデザインする大丸」を目標に、新しいシンボルマーク・ロゴタイプ・コーポレートカラーを設定しました。
シンボルマークは“孔雀”をデザイン化し、羽根を表す右上がりの斜線には、飛躍発展の思いが込められています。

写真:J.フロントリテイリング史料館 提供(中央)

1980年 芦屋店開店

日本有数の高級住宅地を有する兵庫県芦屋市。JR芦屋駅の駅ビル開業と同時に、芦屋店が開店。地域のお客様の志向性にあわせ、ハイセンスで芦屋らしい店作りを行いました。

写真:J.フロントリテイリング史料館 提供

1980年 須磨店開店

昭和55年(1980年)3月、神戸市のベッドタウン「須磨ニュータウン」に、百貨店、スーパー、専門店街からなる当時としては先進的なショッピングセンター「須磨パティオ」が開業。須磨店は、そのコアテナントとしてオープンし、新しい郊外型百貨店のモデルとなりました。

写真:J.フロントリテイリング史料館 提供

1976年 デパート業界初のデメリット表示導入

昭和初期に業界初の商品試験室を開設するなど、大丸は「お客様第一主義」をかたちにする活動を展開してきました。昭和51年からはじめた、商品へのデメリット表示は百貨店業界では初めてのことでした。

写真:J.フロントリテイリング史料館 提供

1967年 創業250年

昭和42年(1967年)、大丸は創業から250周年を迎えました。
「ヨーロッパ商品展」をはじめ、各店で特別な催しを展開するとともに、記念式典や研修施設の開設など数々の記念行事を行いました。

写真:J.フロントリテイリング史料館 提供

1964年 ジバンシィと独占契約

オードリー・ヘプバーンが愛用し、彼女の主演映画でも様々な衣装を提供したジバンシィ。ケネディ家御用達としても知られるこのブランドと、昭和39年(1964年)に独占契約。以後、大丸を代表するブランドになりました。

写真:J.フロントリテイリング史料館 提供

1960年 売上高百貨店1位に

昭和35年(1960年)の下期には、百貨店業界で売上高第一位になり、以後、43年(1968年)まで、8年半連続して日本一の座を守り続けます。41年(1966年)の年間売上高は1千億円を超え、日本の小売業界における売上高の新記録を樹立しました。

1959年 紳士服PB「トロージャン」発売

ロサンゼルスから紳士服のプロフェッショナル・奈古済一氏を招き、紳士既製服を開発。今も販売を続けるプライベートブランド、「トロージャン」の誕生です。
アメリカ式の縫製技術や、当時最新鋭の設備を導入し、日本人の体型にあった紳士服を開発。今では当たり前となっているスーツづくりの礎を築きました。今では一般的なY体、A体、AB体、B体というサイズ表記も、トロージャンがはじめたものです。

写真:J.フロントリテイリング史料館 提供

1954年 東京店開店

東京では、寛保3年(1743年)、日本橋大伝馬町に江戸店を開店。しかし、明治43年(1913年)に閉店しました。
昭和26年(1951年)ごろになると、百貨店業界は成長産業へと発展。東京駅では、八重洲口に当時としては東京最大級となる駅ビルを作る計画があり、大口の借主を求めていました。
大丸は東京への再度の進出を決め、昭和29年(1954年)10月20日、東京店を開店。招待日に続く翌21日の営業初日には、20万人のお客様にお越しいただきました。

写真:J.フロントリテイリング史料館 提供

1953年 ディオールと独占契約

昭和28年(1953年)10月に、大丸はクリスチャン・ディオールと独占契約。大阪、京都、神戸でファッションショーを開催し、パリの最新のファッションを日本に紹介しました。海外の著名なデザイナーとの提携は日本初で、百貨店業界のみならず日本のファッション業界にも大きな影響を与えました。

写真:J.フロントリテイリング史料館 提供

1945年 第二次世界大戦の終戦

昭和20年(1945年)8月、第二次世界大戦が終わりました。3月の大阪大空襲で大阪店(心斎橋店)上層階は焼け、周辺は荒廃。大丸はまず、市民生活への奉仕のため「日用品衣類等交換所」を設け、物々交換と不用品の引取りを開始しました。

写真:J.フロントリテイリング史料館 提供

1937年 戦時下の活路を求めて海外へ

昭和12年(1937年)に日華事変が勃発。日本国内にも戦争が色濃く影を落とし始めました。店内でも節電のため冷房を休止、エレベーターも一部休止したほか、生活必需品の流通も次第に停滞。政府が様々な統制を行い商売が窮屈さを増す中、大丸は中国大陸や東南アジアに進出することになります。

写真:J.フロントリテイリング史料館 提供

1931年 京阪神の3店舗を統一

経営建て直しのため、大正3年(1914年)に「合資会社大丸呉服店」となった京都店は、昭和3年(1928年)に西館を6階建てにし、京都随一の百貨店へと成長、12月に商号を「株式会社京都大丸」に改めました。昭和6年(1931年)7月、大阪・神戸の「株式会社大丸」と「株式会社京都大丸」が合併し、株式会社大丸となりました。
このことにより、「株式会社京都大丸」は「株式会社大丸 京都店」となりました。

写真:J.フロントリテイリング史料館 提供

1928年 呉服店から百貨店に、「株式会社大丸」に

大正12年(1923年)に里見純吉が専務取締役に就任して以来、様々な経営改革が行われてきました。昭和3年(1928年)6月、商号から「呉服店」の言葉がはずれ、「株式会社大丸」と改められました。

写真:J.フロントリテイリング史料館 提供

1927年 大阪店に染色試験室・衛生試験室開設

お客様から店に持ち込まれた苦情やご相談に対して、科学的に原因を究明してお答えするため、昭和2年(1927年)、大阪店の中に染色試験室・衛生試験室が設置されました。繊維の色落ちや食品の品質トラブルに対して、時には試験方法そのものを開発しながら、消費者のための品質管理や改善に努めてきました。(現「消費科学研究所」)

写真:J.フロントリテイリング史料館 提供

1927年 神戸店、元町に移転

神戸店は、明治41年(1908年)に兵庫の鍛冶屋町から元町4丁目に移り、百貨店として開店した後、昭和2年(1927年)に明石町の現在地に移転しました。地下1階・地上7階、延べ6,500㎡から、後に地下2階・地上7階(一部8階)、延べ21,000㎡の兵庫一の百貨店となりました。

写真:J.フロントリテイリング史料館 提供

1922~33年 歴史に残る大阪店建築

大正9年(1920年)に「株式会社大丸呉服店」の本店と定められたのが大阪店(現在の心斎橋店)。同年火災で全焼し、ヴォーリズ建築事務所の設計、竹中工務店の施工により、大正11年(1922年)から昭和8年(1933年)にかけて竣工しました。
心斎橋筋側東面外観はネオ・ルネサンス様式、御堂筋側西面外観はネオ・ゴシック様式を基調とし、アール・デコの華やかなデザインが施され、大阪中心部のランドマークとして長く愛されてきました。後に大丸のシンボルとなる「くじゃく」のテラコッタ像は大正14年(1925年)の第二期工事の際に取り付けられ、以後ずっと街を行きかう人々を見つめています。

写真:J.フロントリテイリング史料館 提供

里見純吉

1922年 現代に通じる百貨店改革へ

大正12年、大丸の初代社長、下村正太郎が三顧の礼で迎えたのが、里見純吉でした。専務取締役として経営の全権を委任された里見は、それまで温めていたアイデアを大丸で実現することになります。
早速従業員の俸給改正、人事制度、職務規定の改正が行われ、大正11年から実施していた業界初の週休(月曜定休)も、入社前の里見の考えを実現させたものでした。

写真:J.フロントリテイリング史料館 提供

大正10年頃、裁縫加工所の娘たち。

1920年 株式会社大丸呉服店発足

大正9年(1920年)4月16日、資本金1,200万円で株式会社大丸呉服店が設立されました。

写真:J.フロントリテイリング史料館 提供

モダンな洋装で大阪の町を駆け抜けたメッセンジャーボーイ。 大正2年完成大阪店新館

1913~14年 大阪店洋館落成・呉服店から百貨店へ

明治維新後の経営環境は厳しく、ついに明治43年(1913年)10月の臨時株主総会で、本社の京都移転と、東京店、名古屋店の閉店が決議されました。大正3年(1914年)には大阪店と神戸店を「株式合資会社大丸呉服店」、京都店を「合資会社大丸呉服店」としてスタートさせました。
大正2年(1913年)には、大阪店の木造洋館が落成。洋服・洋品・雑貨・化粧品を陳列形式で販売し、近代的なデパートへ生まれ変わりました。翌年には店内をすべて陳列方式にして呉服店の伝統的な座売りを廃止しました。

写真:J.フロントリテイリング史料館 提供

1913年「七五三」の商標を制定

創業時から看板などに用いられていた、○に大の字のマークは、大正2年(1913年)に商標登録しました。第一角の左上に「三」本、第二画のはらいに「五」本、第三角のはらいに「七」本。縁起のよい七五三の髭文字です。

1908年 株式合資会社「大丸呉服店」発足

明治40年(1907年)11月、全国の大丸各店の支配人が京都本店に集まり、会社組織に改編するための会議を行いました。
この会議で会社化が決まり、資産を売却して負債を整理、残った額を資本金に、翌年1月、株式合資会社大丸呉服店が設立されました。

写真:J.フロントリテイリング史料館 提供

1864年 大阪両替屋では近藤勇が借金

幕末の京都では、新撰組局長近藤勇が京都守護の名目で御用金を集めており、大坂の大丸両替店も銀53貫500匁を貸しましたが、ついに返済されませんでした。

写真:国立国会図書館 提供

1863年 新撰組の制服を受注

袖口にダンダラ模様を白く染め抜いた浅葱色の羽織に「誠」の文字。新撰組の隊士服は、文久3年(1863年)、新撰組初代局長であった芹沢鴨が、当時京都の松原にあった大丸屋の支店に200両で注文したものとされています。

1837年 大塩平八郎の乱で焼き討ちを免れる

天保の大飢饉により、全国で一揆が多発。大阪でも米が不足し、庶民の暮らしは苦しいものでした。大坂町奉行所の元与力であった大塩平八郎は、奉行所に救民を訴えるものの却下され、私財で庶民の救済を行っていたものの、ついに武力に訴え、仲間を募って乱を起こします。300名ほどになった一党は米の買占めを行っていた豪商を襲いました。このとき平八郎は「大丸は義商なり、犯すべからず」と命令を発し、大丸は焼き討ちを免れたと伝えられています。

1789年ごろ 庶民救済のための粥施行

呉服の生産拠点として隆盛を極めていた京都西陣ですが、18世紀半ばから衰退が始まります。18世紀後半の京の町では失業者が増えました。京都の店では寒空にふるえる人たちに布子類(防寒用の衣類)などをふるまい、大規模な粥施行(炊き出し)を行いました。

1759年ごろ 松平定信の産着を受注

天明3年(1783年)東北の岩木山、浅間山の噴火に端を発し、農作物に危機的な被害が出て、天明の大飢饉が起こりました。白川藩主として飢饉対策に成功し、江戸幕府の重職に抜擢、後に「寛政の改革」を指導したのが松平定信です。
八代将軍徳川吉宗の孫である定信の誕生に際し、大丸屋江戸店に産着の注文がありました。順調に育ったことから、「子育て産着」と名付けて一般向けに販売、人気商品となったとのことです。

歌川広重画「江戸大伝馬町大丸呉服店の図」 歌川豊国画「たばこ切佐七」(大丸京都店所蔵、部分)

1743年 アイデアが光った江戸店開店

元文7年(1736年)、業祖は江戸進出を決意し、周到な準備を開始。2年後には江戸の同業者を訪ねて取引を取りまとめ、京呉服を送り始めます。荷物と一緒に、丸に大の字を染め抜いた萌黄色の風呂敷を大量に詰めました。
江戸の呉服店では、小僧さんが大丸屋の商標が入った風呂敷を背負って江戸の街中を歩きました。寛保3年(1743年)の開店時にはすでに大丸屋の存在は知れ渡っていて、すぐに評判となりました。
また、お客様だけでなく通行人にも傘を貸すサービスを実施。「大丸貸傘」として有名になり、後に芝居の中にも登場するほどに。こちらも傘には商標が入り、広告としての役割を果たしました。

写真:J.フロントリテイリング史料館 提供

1736年 社是「先義後利」を制定

商売が軌道に乗った時期、業祖下村彦右衛門は、事業の根本となる理念を「先義後利」と定めました。古の中国の儒学者、荀子(じゅんし)の「栄辱編(えいじょくへん)」の中にある、「先義而後利者栄(義を先にして利を後にする者は栄える)」という一節から引用した言葉です。現代の言葉に置き換えると「お客様第一主義」です。
元文元年(1736年)、業祖は自筆の「先義而後利者栄」を掛け軸にし、全店に配布しました。「先義後利」は現在に至るまで、大丸の精神として受け継がれています。

写真:J.フロントリテイリング史料館 提供

1728年 はじめて「大丸」を名乗った名古屋店開店

「大文字屋」は、享保13年(1728年)名古屋に進出。このとき初めて、「大丸屋」と名乗りました。
(画像は明治初期に描かれた名古屋「大丸屋」です)

写真:J.フロントリテイリング史料館 提供

1726年 今に生き続ける大阪店「松屋」開店

京都伏見で商いを始めた「大文字屋」は、享保11年(1726)年に大阪進出を果たします。11月1日、現在の大丸心斎橋店本館がある場所に呉服店を出店、「松屋(まつや)」と名付けました。
そしてこの時から、「現銀掛け値なし」という、現金払いを導入しました。売り手にとっては資金の回転が速くなり、それにより安く売ることができ、お客様にとっては無駄買いが無いという商法でした。

写真:J.フロントリテイリング史料館 提供

1717年 大文字屋開店、創業

大丸の業祖、下村彦右衛門は、元禄元年(1688年)に生まれ、19歳のときに家業の古着商を継ぎ、行商で苦労しながら、享保2年(1717年)、29歳にして伏見に呉服店「大文字屋」を開きました。この時をもって、大丸の創業としています。
○に大の字の商標は、○は天下を表し、大は一と人の組み合わせで、天下第一の商人になろうと言う決意を込めたものでした。

写真:J.フロントリテイリング史料館 提供